■IPフォン

IP電話ともいう。 インターネットをベースとした格安の音声電話サービスのこと。 IPフォンに加入するためには、利用者が光ファイバー・ADSL・CATVという高速の情報通信サービスに加入していることが必要になる。その上で、利用者が加入している通信事業者(プロバイダなど)がIPフォンサービスを提供している場合には、利用者が申し込むことにより、IPフォンが使用できるようになる。ただし初期費用、月額(定額)使用料が必要である。 現在提供されているIPフォンのサービスでは、既存のアナログ電話機を、IPフォンに対応した特別の機器(IPフォン対応モデムなど)につなぐことにより、IPフォン通話が使用可能になるものが多い。 IPフォンに加入した場合、IPフォン専用の電話番号が交付される(既存の電話番号は一般電話回線として引き続き使用できる)。IPフォンへの一般電話・携帯電話からの着信も可能である。 IPフォンの加入者どうしの通話は無料となることが多い。また一般電話との国内通話・国際通話は格安となる。 不動産投資、内裏守護の源頼茂(源頼政の孫)が西面の武士に攻め殺される事件が起きた。理由は頼茂が将軍に就こうと図ったためとされているが、幕府の問題のために後鳥羽上皇が朝廷の兵力を動かすのは不自然であり、頼茂が後鳥羽上皇による鎌倉調伏の加持祈祷を行っていた動きを知ったためと考えられている。そのためか、事件の直後に後鳥羽上皇が祈願に使っていた最勝四天王院が取り壊されている。 朝廷と幕府の緊張はしだいに高まり、後鳥羽上皇は討幕の意志を固めたが、土御門上皇はこれに反対し、摂政近衛家実やその父基通をはじめ多くの公卿達も反対、または消極的であった。順徳天皇は討幕に積極的で、承久3年(1221年)に懐成親王(仲恭天皇)に譲位し、自由な立場になって積極的に協力する。また、近衛家実が退けられて、新帝外戚の九条道家が摂政となった。密に寺社に命じて義時調伏の加持祈祷が行われた。討幕の流説が流れ、朝廷と幕府の対決は不可避の情勢となった。 これについて河内祥輔は現職将軍である実朝が暗殺されたことで、実朝が皇子を猶子などの形で後継指名をして将軍の地位を譲り実朝はその後見となる構想が破綻してしまったことと、新将軍に反対する勢力による皇子の暗殺が危惧される状況となったために、後鳥羽上皇が皇子の安全を図る更なる保障(河内はこれを幕府機構及び北条氏以下主要御家人の京都移転とみる)を求めて幕府側が拒絶したとしている。逆にこの時に皇族将軍のみならず、摂家将軍の擁立も後鳥羽上皇が拒絶すれば、追い込まれるのは主の目処を失ってしまう幕府側であり、三寅の鎌倉下向の容認自体がこの時点での後鳥羽上皇に倒幕を行う意思が無く、承久の乱における最終目的も鎌倉における現行の幕府体制の打倒であって、京都において「幕府」が存続することまでは反対していなかったと説く。 ワラント、後鳥羽上皇は「流鏑馬揃え」を口実に諸国の兵を集め、北面・西面の武士や近国の武士、大番役の在京の武士1700余騎が集まった。その中には有力御家人の小野盛綱、三浦胤義も含まれていた。幕府の出先機関である京都守護の大江親広(大江広元の子)は上皇に強要され、やむなく京方に加わる。同時に親幕派の大納言西園寺公経は幽閉された。翌15日に京方の藤原秀康率いる800騎が京都守護伊賀光季の邸を襲撃。光季は僅かな兵で奮戦して討死したが、下人を落ち延びさせ変事を鎌倉に知らせた。 後鳥羽上皇は諸国の御家人、守護、地頭らに義時追討の院宣を発する。同時に備えとして近国の関所を固めさせた。京方の士気は大いに上がり、「朝敵となった以上は、義時に参じる者は千人もいないだろう」と楽観的であった。これに対して東国武士の庄家定は「義時方の武士は万を下るまい。自分も関東にあったなら義時に味方していた」と楽観論を戒め、後鳥羽上皇の不興を買った。 くりっく365の効果を絶対視しており、諸国の武士はこぞって味方すると確信していた。後鳥羽上皇は三浦義村をはじめ幕府の有力御家人には格別の院宣を添えて使者を鎌倉に送った。特に三浦義村については弟の胤義が「日本総追捕使に任じられるなら必ず御味方しましょう」と約束しており、大いに期待されていた。 鎌倉へは、西園寺公経の家司三善長衡と伊賀光季からの上皇挙兵の急報が19日に届けられた。京方の使者はその少し後に到着し、警戒していた幕府方に捕らえられてしまった。胤義からの密書を受けた三浦義村は使者を追い返し、直ちに密書を幕府に届けた。21日には院近臣でありながら挙兵に反対していた一条頼氏が鎌倉に逃れてきた。 外為に鎌倉の武士は大いに動揺したが、『吾妻鏡』や『承久記』によれば北条政子が「故右大将(頼朝)の恩は山よりも高く、海よりも深いはずだ。逆臣の讒言により非義の綸旨が下された。秀康、胤義を討ち取り、亡き三代将軍の遺跡を全うせよ。院に味方したい者は、直ちにその旨を述べて参じるが良い」と涙ながらの名演説を行い、義時を中心に御家人を結集させることに成功した。 承久の乱幕府軍進路義時、泰時、時房、大江広元、三浦義村、安達景盛らによる軍議が開かれ、箱根・足柄で徹底抗戦をする慎重論に対し、広元は京への積極的な出撃を主張。政子の裁決で出撃策が決定され、素早く兵を集め、5月22日には軍勢を東海道、東山道、北陸道の三方から京へ向けて派遣した。急な派兵であったため、東海道軍は当初18騎で鎌倉を発向。泰時は途中で鎌倉へ引き返し、天皇が自ら兵を率いた場合の対処を義時に尋ねた。義時は「天皇には弓は引けぬ、ただちに鎧を脱いで、弓の弦を切って降伏せよ。そうでないなら力の限り戦え」と命じたと言われる。幕府軍は道々で徐々に兵力を増し、『吾妻鏡』によれば最終的には19万騎に膨れ上がった。 義時は捕らえていた上皇の使者に宣戦布告の書状を持たせて京へ追い返す。鎌倉の武士たちが院宣に従い、義時は討滅されるであろうと信じきり、幕府軍の出撃を予測していなかった後鳥羽上皇ら京方首脳は狼狽した。とりあえず、藤原秀康を総大将として幕府軍を迎え撃つこととして、1万7500余騎を美濃国へ差し向ける。京方は美濃と尾張の国境の尾張川に布陣するが、少ない兵力を分散させる愚を犯していた。6月5日、武田信光率いる東山道軍5万騎は大井戸渡に布陣する大内惟信率いる京方2000騎を撃破した。藤原秀康と三浦胤義は支えきれないと判断し、宇治・瀬田で京を守るとして早々に退却を決める。6日に泰時、時房の率いる主力の東海道軍10万騎が尾張川を渡河し墨俣の陣に攻めかかった時にはもぬけの殻、山田重忠のみが杭瀬川で奮戦するが、京方は総崩れになり、大敗を喫した。 外為率いる北陸道軍4万騎も砺波山で京方を撃破して、加賀国に乱入して京を目指した。 美濃・尾張での敗報に京方は動揺して洛中は大混乱となった。後鳥羽上皇は自ら武装して比叡山に登り、僧兵の協力を求めるが、上皇の寺社抑制策が禍して比叡山はこれを拒絶。やむなく、京方は残る全兵力をもって宇治・瀬田に布陣し、宇治川で幕府軍を防ぐことに決め、公家も大将軍として参陣した。6月13日、京方と幕府軍は衝突。京方は宇治川の橋を落とし、雨のように矢を射掛け必死に防戦する。幕府軍は豪雨による増水のため川を渡れず攻めあぐねたが、翌14日に強引に敵前渡河し、多数の溺死者を出しながらも敵陣の突破に成功。京方は潰走し、幕府軍は京へなだれ込んだ。幕府軍は寺社や京方の公家・武士の屋敷に火を放ち、略奪暴行を働いた。 『承久記』によると、敗走した京方の藤原秀康、三浦胤義、山田重忠は最後の一戦をせんと御所に駆けつけるが、上皇は門を固く閉じて彼らを追い返してしまう。山田重忠は「大臆病の君に騙られたわ」と門を叩き憤慨した。 後鳥羽上皇は幕府軍に使者を送り、この度の乱は謀臣の企てであったとして義時追討の宣旨を取り消し、藤原秀康、三浦胤義らの逮捕を命じる宣旨を下す。上皇に見捨てられた藤原秀康、三浦胤義、山田重忠ら京方の武士は東寺に立て篭もって抵抗。三浦義村の軍勢がこれを攻め、藤原秀康、山田重忠は敗走し、三浦胤義は奮戦して自害した。 7月、首謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流された。討幕計画に反対していた土御門上皇は自ら望んで土佐国へ配流された。後鳥羽上皇の皇子の六条宮、冷泉宮もそれぞれ但馬国、備前国へ配流。仲恭天皇(九条廃帝、仲恭の贈名は明治以降)は廃され、行助法親王の子が即位した(後堀河天皇)。親幕派で後鳥羽上皇に拘束されていた西園寺公経が内大臣に任じられ、幕府の意向を受けて朝廷を主導することになる。 後鳥羽上皇の膨大な荘園は没収され、行助法親王(後高倉院の称号が贈られる)に与えられた。ただし、その支配権は幕府が握っている。 討幕計画に参加した上皇方の「合戦張本公卿」と名指しされた一条信能、葉室光親、源有雅、葉室宗行、高倉範茂ら公卿は鎌倉に送られる途上で処刑され、その他の院近臣も各地に流罪になったり謹慎処分となった。また後藤基清、佐々木経高、河野通信、大江親広ら御家人を含む京方の武士が多数粛清、追放された。 乱後、幕府軍の総大将の泰時、時房らは京の六波羅に滞在し、朝廷の監視や西国武士の統率を行う。朝廷は京都守護に代り新たに設置された六波羅探題の監視を受けるようになり、皇位継承をも含む朝廷に対する鎌倉幕府の統制が強化された。 京方の公家、武士の所領約3000箇所が没収され、幕府方の御家人に分け与えられ新補地頭が大量に補任された。