■RMBS

Residential Mortgage Backed Securitiesの略。住宅ローンを担保として発行される証券のことで、住宅金融公庫(現在は「住宅金融支援機構」)が発行する貸付債権担保住宅金融公庫債券(現在は「貸付債権担保住宅金融支援機構債券」)や金融機関が発行する住宅ローン債権担保証券がこれにあたる。 証券を買った投資家は住宅ローンの償還金や利子を受け取る。その特徴は、多数の住宅ローン債権をまとめてパッケージとして金融商品化することであり、アメリカで発達・拡大した商品である。住宅ローンは超長期固定金利という特性があるが、債務不履行、繰り上げ償還などのリスクがあり、それらのリスクを投資家に分散する手法として、日本でも発行が拡大してきている。 は本格的に3度目の日本侵略を計画し、1287年に一旦解散した征東行省を再度開設し、高麗忠烈王が丞相に就任したが、この時期に元の内部でも反乱が続き、日本へ軍が出せる状態ではなくなり、クビライの死と共に完全に頓挫した。なお、正安3年11月(1301年)に薩摩国甑島の沖に異国船が出現し、うち1隻から襲撃を受けている。これについては、元の艦隊が偶発的に同地に辿り着いて上陸を試みたものと見られている。 文永の役後、幕府は博多湾の防備を強化しようとした。しかしこの戦いで日本側が物質的に得たものは無く、見返りとしての恩賞は御家人たちの満足のいくものではなかった。中には竹崎季長などのように鎌倉まで赴いて直接幕府へ訴え出て、恩賞を得るといったケースもあった。 弘安の役後、幕府は元軍の再度の襲来に備えて御家人の統制を進めたが、文永の役に続き弘安の役においても十分な恩賞給与がなされなかったため、戦費で窮迫した御家人達は借金に苦しむようになった。幕府は徳政令を発布して御家人の困窮に対応しようとしたが、御家人の不満は完全には解消されなかった。 の日本に「元に勝ったのは、公家などの貴族たちが、勝利や平和についての歌を作って詠んだ、言霊の結果である」あるいは「僧侶や神官らの折伏(しゃくぶく)や祈祷による結果である」との認識が広く存在していた。実際に弘安4年から翌年にかけて九州の諸社及び伊勢神宮に対して「興行法」と呼ばれる一種の徳政令が発布されて、幕府の安堵状が出されている御家人領も含めた全ての旧神領を神社へ返還するよう命じられている。 当時の日本国内では、対元戦争を日本の神と元の神の争いと見る観念が広く共有されており、歌詠みや諸社による折伏・祈祷は日本の神の力を強めるものと認識されていた。これを天人相関思想というが、日本を救った暴風雨を神風と呼ぶこととなったのも、この天人相関思想に起因するという説が有力となっている。また、神風によって日本が救われたという出来事は「神国思想」(=日本は神国なのだから負けるはずがないという考え)を日本人に広く浸透させ、それが太平洋戦争末期の日本軍や国民思想の非合理性の温床となり、神風特別攻撃隊をはじめ数々の悲劇を生んだとも言われている。 貨幣経済の浸透や百姓階層の分化とそれに伴う村落社会の形成といった13世紀半ばから進行していた日本社会の変動は、元寇の影響によってますます加速の度合いを強めた。そして、御家人階層の没落傾向に対して新興階層である悪党の活動が活発化していき、この動きは鎌倉幕府滅亡へとつながっていく。 文永の役の理由については南宋への牽制であり、少なくともクビライは最初から日本侵攻を望んでいたわけではないと考えられている。また、短期間での帰還理由についても、自主的撤退とする説が出されている。 それは、 日本側の対応を確認するため。これは、軍事的に言えば「威力偵察」と呼ばれているものであり、ごく基本的な戦術のひとつである。 ある程度の損害を与え、その後の交渉で日本に要求をのませるようにするため。これは、元がたびたび使っている戦法であり今回もそれに準じたものということである。 これは、当時の元が日本に使者を送った理由や情勢を考えると、至極妥当だとする考えである。 ipoであったと言う傍証として、時の元の水軍には長期戦略に対する装備の用意はなく、そのため一日で矢を撃ち尽くして去っていったという、元側の記録が残っている。[17] 一方で、南宋が滅んだ後の弘安の役については様々な説がある。 有力なものとしては、南宋を降した後に旧南宋軍を日本攻撃にあたらせ、消耗させるためと言うものがある。旧南宋軍は被征服者のため元への忠誠心も全く無く、さらに元々南宋は金で兵士を募集する募兵という形をとっており、数は多いが所詮は寄せ集めであり、士気・忠誠心も低く、戦闘能力も高くなかった。また軍を解散させると職を失った大量の兵士達が社会不安の要因となってしまう。 近年の調査では、博多湾の底で見つかった元の軍船から、農業用の鋤や鍬などが見つかっている[18]。『元史』日本伝 至元十八年正月条によると、クビライは遠征に先立って大都に遠征軍の指揮官である阿剌罕、范文虎、忻都、洪茶丘らを召集し勅を下しているが、そのなかで「朕、漢人の言に聞くに、『人の家、国を取るには百姓土地を得んと欲す。もし尽く百姓を殺さば徒に地を得るも何に用いん』」とも述べており、このため、弘安の役で戦争に勝利した暁には屯田を目的として長期的な日本の占領・支配することを意図していたのではないかと考えられている。これをもって侵攻の意図と見る見解があり、14万人という過剰な人員のうち、旧南宋の兵員からなる江南軍10万人は軍隊兼移民団だったのでは、と言う見解も出されている。元にとっては忠誠心のない軍を遠征に投入し、遠い日本に所払いするという一石二鳥の作戦であったと思われる。[19] 『高麗史』によると1272年に、高麗の王世子のェ(しん、後の忠烈王)が、大元朝のクビライ皇帝に「惟んみるに、日本は未だに聖化を蒙らず。故に詔使を発し、軍容を継耀かし、戦艦兵糧まさに、須いる所あらん、もし此事を以って臣に委ねなば、勉めて心力を尽くして 小しく王師を助くるに庶幾(ちか)からん」[20]と具申したとある。また「元史」によると、元寇の発端は、高麗王の忠烈王が「元の皇帝に執拗に、東征して日本を属国にするよう勧めた」との記述がある[6]。これに対して忠烈王の発言の所以を高麗の国内事情に求める向きもある。高麗はモンゴルの侵攻前は武臣が王を傀儡化して政権を執っており、王はモンゴルの兵力を借りることによって王権を奪い返した。それ以後、高麗王はほとんどモンゴルと一体化し、モンゴル名を貰い、モンゴル皇帝の娘を王妃にしモンゴル皇帝であるクビライ王家の娘婿(キュレゲン、グレゲン)となる姻族、「?馬高麗国王家」となっていた[21]。これに反対する勢力は反乱を起こし、モンゴルにより鎮圧されるが、一部はなお激しい抵抗を続けていた。これが三別抄である。忠烈王の発言は王権を保つためにクビライの意を迎えようとしたとする見解がある。上述の3策のうち、高麗ルートを選ばせたのもモンゴル兵力が高麗から離れてしまうことを恐れたためとも考えられる。 個人向け国債、東大寺宗性筆の「蒙古國牒状」『調伏異朝怨敵抄』。1268年にクビライの意向を受けた高麗牒使・潘阜がもたらした国書の忠実な模写と考えられている。元が最初に送った国書であるが、これに関しては東洋史学者は概ね他の歴代中国王朝の国書と比べて驚くほど低姿勢であると見ているのに対して、日本史学者は高圧的と見る傾向にあると言われる[22]。wikisource:蒙古皇帝国書を参照のこと。ちなみに、北条時宗の反対で出される事はなかったものの、朝廷がクビライに出そうとした返書は「日本は天照大神以来の神国であって、外国に臣従する謂れはない」とするかなり過激な内容だったとも伝えられている。[23] また使者に対する殺害に関して、彼らがスパイ行為を行っていたためと言う見解がある。文永の役以前の使者の行動はかなり自由で、道中では色々な情報を集めることができた。そのため、使者による間諜行為がおこなわれたようである。『八幡大菩薩愚童訓』には「夜々ニ筑紫之地ヲ見廻、船戦之場懸足逃道ニ至マテ、差図ヲ書」とあり、『元史』趙良弼伝にも「使日本趙良弼、至太宰府而還、具以日本君臣爵号、州郡名数、風俗土宜来上」とある。こういった間諜行為が考慮されてか、文永の役以降は使者を斬るようになる。また、武家政権である鎌倉幕府の性格からの武断的措置であるとする解釈や、対外危機を意識させ防戦体制を整える上での決定的措置であるとする考え方などがある。 資産運用の評価については賛否両論がある。同時代では日蓮が批判し、後世の評価では2回目の日本侵攻の口実になった暴挙であると評価する論者と、元の2回目の対日侵攻には影響を与えなかった、あるいは国難に対しては手本にするべき好例であると肯定的に評価する『大日本史』や、頼山陽らがいる。 文永の役における蒙古軍の撤退に関して、日本側の史料には一夜明けると蒙古船が消失していた事実が記されているのみとされる。公家の広橋兼仲の日記『勘仲記』には、伝聞として逆風が吹いたことを記されている。高麗の史料、『高麗史』などには、撤退途中に風雨が起きて多数が座礁した事が記されている。しかし日本側の史料にその記載が無い。気象学的には過去の統計に台風の渡来記録が無いことから、台風以外の気象現象という見解もとられている。文永の役に関しては、台風の可能性はほぼなかったと、今日では見なす者が多い。