当事者以外には内容が理解できないように文字等の記号を変換することをいう。インターネットを通じた情報交換においてはその通信は常に傍受可能であるから、秘密保持を要する記号(例えばクレジットカードの番号、重要な個人情報、企業秘密など)の通信に当たっては、暗号化が必須である。
暗号化は、記号を一定の方法で変換し(その際に使う鍵が暗号化鍵)、変換した記号を伝達し、受け取った記号をもとの記号に復元する(その際に使う鍵が複号化鍵)というプロセスを基本とする。従って、暗号の安全性は、復号化鍵を当事者のみが知っていることによって保たれる。暗号化の最重要課題が第三者による復号化鍵の解読を困難にすることにあるのはそのためである。
古来、さまざまな暗号化の技術が工夫されているが、インターネットによる取引の安全を確保するためによく使われる暗号化の方法として、「公開鍵暗号」がある。
これは、通常は同一である暗号化鍵と復号化鍵を異なるように設定し、暗号化鍵をあらかじめ公開したうえでその暗号化鍵を用いた暗号を受信する方法である。受け取った暗号は、受信者しか知らない復号化鍵がなければ解読できない。理論上は暗号化鍵から復号鍵を推定できるはずだが、その計算には膨大な時間を要して事実上不可能であるとされる。
また、公開鍵暗号を用いた通信に当たっては送信者を安全確実に特定することが必要だが、そのための方法として工夫されたのが「電子署名」である。
外国為替は、当初は名乗りをあげての一騎打ちや、少人数での先駆けを試みたため一方的に損害を受けたが、昼頃には集団戦術に対応、また増援の到着により反撃に転じた。『八幡大菩薩愚童訓』(『八幡愚童訓』甲種本のひとつ)によると、百道浜より3キロ東の赤坂にて菊池武房らの軍勢230名ほどの騎馬が徒歩の部隊だった2千前後の元軍を撃破した。『蒙古襲来絵詞』によると竹崎季長が鳥飼潟から祖原へ追撃、上陸地点より500メートル付近まで押し返した。さらに後続を待たず先駆けを試み窮地に陥ったところ白石通泰らが救援に駆けつけ矢戦となった。
博多では海岸付近で激しい矢戦となり、日本軍は敗走したが殿軍の少弐景資が追撃してきた劉復亨を射倒すなどして[10]、内陸への侵入を阻止した。『高麗史』によると、やがて日暮となり戦闘を解し、日本軍は大宰府に帰った。
FXは博多を占拠したものの終日の激戦で矢が尽き、軍の編成が崩れた。このため、大宰府攻略をあきらめ、博多の市街に火をかけて焼き払い、撤退することにした。
『高麗史』金方慶伝によると、この夜に自陣に帰還した後の軍議と思われる部分が載っており、高麗軍の主将である金方慶と派遣軍総司令官である忽敦との間で、以下のようなやり取りがあったことが述べられている。
金方慶「兵法に『千里の県軍、その鋒当たるべからず』とあり[11]、本国よりも遠く離れ敵地に入った軍は、却って志気が上がり戦闘能力が高まるものである。我が軍は少なしといえども既に敵地に入っている。我が軍は自ずから戦うことになるがこれは秦穆公の孟明の『焚船』や漢の韓信の『背水の陣』の故事に沿うものである。再度戦わせて頂きたい」
忽敦 「孫子の兵法に『小敵の堅は、大敵の擒なり』とあって[12]、少数の兵が力量を顧みずに頑強に戦っても、多数の兵力の前には結局捕虜にしかならないものである。疲弊した兵士を用い、日増しに敵軍が増えている状況で相対させるのは、完璧な策とは言えない。撤退すべきである」[13][14]
このような議論があり、また劉復亨が負傷したこともあって、軍は撤退することになったと言う。しかしながら、後述のように文永の役での日本派遣軍の目的はもともと威力偵察の類いであり、このやり取りも当初からの撤退予定を見越したものではなかったか、という指摘もされている[15]。当時の艦船では、博多‐高麗間の北上は南風の晴れた昼でなければ危険であり、この季節では天気待ちで1ヶ月掛かる事もあった。
FXによると、この戦いの最中、鎌倉武士団が迎撃の拠点として加護を祈った筥崎八幡宮から兵火によるものか出火し、社殿は焼け落ちたものの御神体その他は唐櫃に納めて運び出し、辛くも避難出来たという。また夜中、炎上する箱崎八幡宮より出た白装束の者30人ばかりが矢を射掛けたところ、元兵は恐怖し夜明けも待たず(朝鮮通信使のころでも夜間の玄界灘渡海は避けていた)我先にと抜錨し撤退は壊走となり玄界灘で遭難した、という。ただし、この「白装束の者」たちは「白装束」という甚だしく「異形の者」たちであるため、鎌倉武士団その他の実際の軍勢では無く、「筥崎宮の八幡神による神威の顕現」の類いを描写したものと考えられる。『八幡愚童訓』や藤原兼仲(勘解由小路兼仲)の日記『勘仲記』の一写本によると、翌日、元の船団は姿を消しており、文永の役は終結する。『元史』では「世祖本紀」や「日本伝」などにこの時の損耗については特に述べられていないが、『高麗史』、『高麗史節要』では夜中に大いに風雨があり、艦船が難破するなどして損害があり、十一月二十七日(12月26日)に合浦に帰還した際には、派遣軍の不還者は1万3500余人に登ったという[16]。
FXでは、日本の武士は名乗りを上げての一騎打ちしか戦い方を知らず一方的に敗退したが、幸運にも暴風雨、いわゆる神風が起きて、元の船団はその夜のうちに撤退したとされる。しかし、これに関しては史料に矛盾する。詳しくは後述の神風を参照。
元は撤退し、対南宋戦争が佳境に入ったことから、ひとまず主力は江南に向けられる事になった。
1279年(日本の弘安二年・元の至元十六年)、元は江南軍司令官である南宋の旧臣范文虎の進言により、使者が殺されたことを知らないまま周福を正使とする使者を再度送ったが、大宰府にて全員斬首に処される(総計、5名という説が有力)。
この年に南宋を完全征服した元は、日本との同盟や南宋への牽制の必要もなくなった(後項参照)うえ、クビライは逃げ出した水夫より使者の処刑の報を知り、特に、通常の使者よりも高位(礼部侍郎)であった杜世忠の処刑に腹を立て、日本への再度の侵攻を計画し、1280年には侵攻準備のため征東行省を設置している。
1281年(日本の弘安四年・元の至元十八年)、元・高麗軍を主力とした東路軍4万と、旧南宋軍を主力とした江南軍10万、計14万の軍が日本に向けて出発した。
元寇防塁しかし、日本側は既に防衛体制を整えていた。博多沿岸に約20kmにも及ぶ防塁(元寇防塁)を築いてこれを迎えたのである(現代戦においては上陸側は守備側の3倍の兵力がなくては勝てないと言われている)。この防塁はもっとも頑強な部分で高さ3メートル、幅2メートル以上ともされている。いち早く到着した東路軍は防塁のない志賀島に上陸するが、日本軍の斬り込みを受ける。文永の役によって元軍の戦法を周知していた日本軍は優勢に戦い、元軍を海上に撤退させた。さらに小舟での襲撃などにより元軍を悩ませる武士も少なくなかった(一方で河野通有などのように石弓によって重傷を負った武士もいた)。
『蒙古襲来絵詞』より。弘安の役における竹崎季長らによる元の軍船への斬り込みを描いたもの江南軍は、総司令官右丞相阿刺罕が病気のため阿塔海に交代したこともあり、東路軍より遅れてやってきたが、両軍は、平戸鷹島付近にて合流した。しかしここで暴風雨が襲来し、元の軍船は浮いているだけの状態となった。これを好機と見た武士らは元軍に襲いかかり、これを殲滅した。辛うじて陸地にいた元軍兵士も、旧暦7月7日(ユリウス暦7月23日)の竹崎季長らによる鷹島奇襲などでほぼ消滅した。元軍で帰還できた兵士は、のちに解放された捕虜を含めて全体の1、2割だと言われる。なお、日本軍は高麗人とモンゴル人、および漢人は捕虜として捕らえず殺害したが、交流のあった南宋人は捕虜として命を助け、大切に庇護したという。博多の唐人町は南宋人の街であるともいわれる。この戦いによって元軍の海軍戦力の3分の2以上が失われ、残った軍船も、相当数が破損された。
なお、弘安の役における両軍の兵力は、元・高麗軍が約14万(東路軍4万、江南軍10万)、鎌倉軍が約4万だとされる。
「伏敵編」所取の「高祖遺文録」に次のように残っている。この「遺文録』は、日蓮の遺文を集めた記事集である。
《去文永十一年(太歳甲戊)十月ニ、蒙古国ヨリ筑紫ニ寄セテ有シニ、対馬ノ者カタメテ有シ、総馬尉(そうまじょう)等逃ケレハ、百姓等ハ男ヲハ或八殺シ、或ハ生取(いけどり)ニシ、女ヲハ或ハ取集(とりあつめ)テ、手ヲトヲシテ船ニ結付(むすびつけ)或ハ生取ニス、一人モ助カル者ナシ、壱岐ニヨセテモ又如是(またかくのごとし)、》
「百姓」=一般人は「男ヲハ或ハ殺シ、或ハ生取ニシ」ている状況とともに「女ヲハ或ハ取集テ、手ヲトヲシテ船ニ結付、或ハ生取ニス」 とある。そして、「男」と「女」に懸かるのであろうか、「一人モ助カル者ナシ」と書かれている。壱岐でも、同様の残虐な仕打ちがなされた。この史料を取めている「伏敵編」には、「按(あんずるに)」として、編者のコメントがある。 ここでは、高麗の前身の国家である「百済」を引き合いに出し「手掌ヲ穿傷……」(手の平に穴をあけてそこへ縄を通す」の意)云々のやり方を、朝鮮半島において古来より続く伝統的行為としている。まさに、この残虐行為を証拠として高麗人の仕業、と編者は判断している。日蓮は、対馬や壱岐、あるいは九州本土における惨劇を『高祖遺文録」の各個所で言及している